現代の体を動かすヨガには、大きな意味では、ハタヨガに分類されます。いろんな流派がありますが、基本的にはハタヨガの流れにある。 ヨガを学ぶうえで、もっとも有名で権威のあるヨガの教えというと聖者パタンジャリ師がまとめたとされるヨーガ・スートラでしょう。
ハタヨガを学んでいる人たちが当たり前のようにヨーガ・スートラをティーチャートレーニングなどで、ヨガのバイブルとして使われていますが、その違いについて興味持つ人は少ないようです。
ヨガ哲学を学んでいくなかで、まるで違う世界観のこの2つの違いに自分はヨガの世界の深さを感じてしまい、どんどんのめりこんでいきました。
日本語でもヨーガ・スートラの解説本がたくさん出ています。私も何冊も持っている。
ヨーガ・スートラは、4000年前に書かれたなんて説もありますが、西暦5世紀前後ころに纏められたという説が有力で、ラージャ・ヨーガの教典とされています。
ラージャ・ヨーガとは瞑想のヨガ、王様のヨガと言われてヨガを修行する上での王道とも言えます。
現代ではラージャ・ヨーガ=パタンジャリのヨーガ・スートラと理解されています。ただヨーガ・スートラの中ではラージャ・ヨーガという言葉は出てきません。これは後の世でくっつけた後付けであった可能性や、ラージャ・ヨーガの経典の一つで残ったのがヨーガ・スートラだったのかもしれません。
ヨーガ・スートラといえばもっとも有名なのは、1章の2の
YOGAS CHITTA VRITTI NIRODHAH(ヨーガ チッタ ブリッティ ニローダハ)
ヨーガ・スートラは、ヨガを八支則(アシュタンガ・ヨガ)で纏めたことでも知られています。
ヨーガ・スートラの世界観 二元論
ヨーガ・スートラを理解する上で、大事なのは、その世界観だと思います。
ヨガ・スートラの宇宙観はサーンキャ哲学の二元論がベースになっており、世界をプルシャとプラクリティの2つに分類しました。
プルシャとは、精神原理、真我。 観るもの。
プラクリティは、物質原理、肉体や心、観られるもの。
世界はプルシャとプラクリティの2つで、プラクリティから、さまざまなものが生まれて派生しているが、私たちの本質は観るものであるプルシャであり、ヨーガの修行は自分の本質であるプルシャであるということに気づくことであるってのが、ヨーガ・スートラの世界観。
ハタヨーガの世界観は、不二一元論
一方でハタヨガの世界観は、インド哲学のヴェーダンタ哲学がベースであり、世界はたった一つのブラフマン(宇宙の根本原理)のみであるという考えがベースにある。
インド最大の哲学者と言われるシャンカラの不二一元論で完成されたとされる。
ハタヨガは、ハタヨーガ・プラティピカーによるとラージャ・ヨーガへの梯子であるとされているが、ヨーガ・スートラと関係があるかは、記述はない。むしろ、ハタヨガの権威をつけるためにラージャ・ヨーガの名前をつけているのかもしれない。
聖なるアーディーナータに礼拝あれ;彼によって説かれたハタヨーガの学術は、至高のラージャ・ヨーガを登らんと欲する物を梯子のように、輝き導く。
ハタヨーガ・プラティピカーの1−3
ハタヨガで大事なのは、太陽(ハ)と月(タ)、男性性(シヴァ)と女性性(シャンクティ)の3つの相反するエネルギーをコントロールしようとすることではないだろうか。 肉体やエゴを持つ人間が宇宙意識と一つになり、解脱、解放を目指そうとしたと考える。
ラージャ・ヨガとハタヨガの世界観の違いには、インドの古くからのカーストだったりとさまざまなものと関係していると考えられる。ラージャ・ヨーガはバラモンの修行の方法が中心だったとされ、ハタヨーガは、もっと底辺というのか一般というのか表現が難しいが、出家していない人たちの修行であったようで、そこには仏教の影響もある。 ヒンズーと融合しながら密教化していった仏教のタントラから、ハタヨガが生まれたことでもインドの宇宙感の表現であったのだろう。
ヨーガ・スートラのヤマ、ニヤマなども仏教やジャイナ教などとの共通する教えがあり、歴史の中で影響しあっていたのだろう。
ヨーガ・スートラとハタヨーガの違いと本質は?
ヨーガ・スートラでは瞑想することによって、少しずつエゴや私という意識を落としていって、世界を純粋に観る力とつけていくのと、ハタヨーガは、アーサナやプラーナヤマにより体に意識を向けて体や呼吸をコントロールすることで、自分の本質が肉体や心という物質ではなく、精神的なものであるという本質に気づいていくということだと理解しています。
現在の主流はヴェーダンタ哲学の不二一元論であり、サーンキヤ哲学の二元論については疑問が多々あると思いますが、ヨーガ・スートラの中には現代に生きるうえでもとても大切な教えで溢れていて、役立つと思います。
この記事を読んで、ヨガ哲学に興味を持ってくれる人がいたら嬉しいなと思います。