それはヨガの古典の奥義書 「ウパニシャッド 辻直四郎著」

ヨガ哲学

ウパニシャッド。奥義書と言われる古代インドのヴェーダ哲学について、昭和14年に辻直四郎さんが講演をもとに昭和17年に出版されたという本。ウパニシャッドは、古代インドで長年にわたって書かれた多数のヴェーダといわれる哲学書の一群で、体裁も内容も統一感がないが、大宇宙と小宇宙がひとつであるという一元論的な思想の本ですが、これをこういうものだって断言するのがとても難しく、この本について書いてみようと思ったが、書けるだろうかと思いながら書いている。

正直言ってはじめて読んだときは、まるで意味不明だったが、様々な学びの中で少しずつ書いてあることが繋がっていった。中でもシャンカラのウバデージャ・サーハスリーがより深い理解へと助けになったと思う。

ウパデーシャ・サーハスリー 真実の自己の探究 シャンカラ著

薄い単行本ですが、内容は半端なく濃ゆい。

サンスクリット語で、upa-ni-sadとは「近くに坐す」を意味し、師弟間近く対坐して伝授さるべき「秘密の奥義」の意に転じ、かかる宇宙の秘技を載せた聖典の名となり、さらにこの種の文献の総称として用いられるに至ったものと解し得る。

16ページ

ウパニシャッドは、一般的に奥義書という意味だと説明されるが、近くに坐すということからきているという。坐すということから、ヨーガのアーサナとの関係性はあったりするのだろうかと思う人もいるかもしれない。

ヴェーダ哲学は、大きく4つのヴェーダがあり、それぞれリグ・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダ、アタルヴァ・ヴェーダであり、それらはさらにサンヒター(本集)、プラーフマナ(梵書)、アーラニカ(森林書)、ウパニシャッド(奥義書)があるが、それらは単体で分かれているのではなく、くっついていたりなどいろいろあるようで複雑というかカオスというべきか。ウパニシャッドだけで現存するもので200はくだらないという。これを一冊で解説してくれることに感謝というか、無理じゃねえって読む前からツッコミたくなるような、諦めたくもなる。ウパニシャッドは古代ウパニシャッドと新ウパニシャッドに分類される。古代ウパニシャッドは散文ウパニシャッドと韻文ウパニシャッドに分類している。

新ウパニシャッドは5つに分類されている。ヴェーダーンタ主義のもの、ヨーガ主義のもの。サンニヤーサ主義のもの、シヴァ主義のもの、ヴィシュヌ主義のものです。 

古代の代表的ウパニシャッドには、一定の組織なく、主題の統一を欠き、同一問題に対する解答が必ずしも常に一様でなく、時には互に相容れぬ見解を含んでいる。まして多数のウパニシャッドを比較する時には、ほとんど収拾すべからざる混乱を呈することすらある。

39ページ 第二章 本論から

インド哲学とかヨーガ哲学といわれるものが、学べば学ぶほどに矛盾に溢れているように感じて、混乱しやすいのは、古代ウパニシャッドの時代からだったんだということに、納得というか安心というか、奥深さや、気づくとはまってしまう魅力がある。 ヨーガ・スートラの解説本を読んでもっと知りたいが、知りたいだけでない、知るほどにわからなくなってくるんだよね。 昭和の初期にこれを説明しようと試みていたということにただただ感服します。

諸神がプルシャすなわち「原人」を犠牲として祭式を行なった結果、その各部分より森羅万象が展開されたと説く

43ページ

ヨーガ・スートラでもお馴染みのプルシャというのは、元々は神だったのが、根本原理へと変化していったようだ。宇宙創造の源といえば同じようにも理解できそうだが、同じ言葉も意味が違うとかが普通にあるので、謎が謎を呼ぶ。アタルヴァ・ヴェーダにおいて、プラーナは創造神プラジャーパティと同一されるという。

梵我一如。ブラフマンとアートマンの合一が、さまざまなウパニシャッドの文献での哲学の同一だというのが著者の見解。しかし書いている内容は古いことだったりで難解で理解が難しい。

ブラフマン(中性語)すなわち梵とは、元来ヴェーダの讃歌・祭詞・呪詞、さらにその内に満つる神秘力、ヴェーダの知識およびその結果たる神通力を意味し、ヴェーダ神聖・祭式万能の信仰につれ、神を動かして願望を達成する原動力と認められ、既述のごとく、アタルヴァ・ヴェーダおよびプラーフマナ文献においては、他の諸原理に伍して宇宙の根本的創造力の名となった。

54ページ

ブラフマンについての解説で、こちらも長く理解しにくいので、頭で理解しようとせず、読んで気になったところが上の願望を達成する原動力とか、宇宙の根本的創造力という、わかるようでわからないが、わからないようで、わかる気がしてくる。

アートマンすなわち我(が)とは、元来「気息」を意味し、生命の主体と目されては「生気」となり、総括的には生活体すなわち「身体」特に「胴体」となり、他人と区別しては「自身」となり、さらに内面的・本質的に解されて「本体・精髄・霊魂・自我」を意味するに至った。これによりアートマンが当初から、プラーナ(気息、生気)およびプルシャ(人・人体・本体)と密接に関聡・接触していたことが明瞭である。

55ページ

ブラフマンと違いアートマンの説明はスッキリしている。 アートマンがプラーナやプルシャと同じであると言われることがここで明確に説明してくれていることで、頭がクリアになった気がします。

ウパニシャッドの正系を継ぐ、後世のヴェーダーンタ哲学は梵・我の本質を要約して有・知・喜(sac,cid,ananda)の三語をもって現している。

64ページ

サット・チット・アーナンダ。ヨガ哲学のクラスとかででてくるけど、その元はどこにあるかというとウパニシャッドに古代から見られるということもわかってくる。 いろんな本を読んで、点と点がつながり、でもつながったものがバッサリ切られることもある。

睡眠に関する考察もある。

根本原理に絶対的存在としての一面と、個人我としての一面とのあることはすでに見た。ウパニシャッドはこの中間に睡眠の状態をおき、後者を夢に煩わされる夢眠と、夢をも見ない熟睡とに分ち、各位におけるアートマンにつき深く考察を廻らしている。

84ページ

現代でもいまだにわからない睡眠について、古代においてこのように考察していたことに驚きと、インドなら普通じゃないかというようにも思う。眠りというとヨガニドラなどとの関係も気になってきます。

夢とは個人我が世界の一小部分を接取し、自ら光明を発し、創造者として建設・破壊する状態である。

85ページ

夢と現実。現実と思っている起きているときの方が幻想で、夢の方が覚醒に近いのかもしれない。

熟睡の外に、この世にありつつ梵・我帰入の状態を味わしめるものとして、広くインドに行われた方法にヨーガ(yoga)の観法がある。清浄閑寂のところに正座瞑目し、出入の気息を調整し、五感を制御し、思念を一点に集中し、種々な幻想を生じ、ついに無念夢想の光惚状態に入るもので、最古のウパニシャッド中には、確実な証拠はないが、おそらくすでに当時から行われていたものと考えられる。

90ページ

ヨーガについての説明が八支のアーサナから、サマディまでを昭和の初期に日本語で説明されている表現が古いが新しさを感じてしまいます。 

この本ではいくつかのウパニシャッドの訳を体裁を紹介する例としてものせています。一番最後に掲載されているカウシータキ・ウパニシャッドの第一章第7節のご紹介で今回のブログ記事の締めとします。

第7節

祭詞を腹とし、歌咏を頭とし、

讃歌を体躯として不滅なるもの、

知るべし彼は梵なりと、

梵よりなる大仙なりと。

梵天は彼にいう。「何によりて汝はわが男性的名称を獲得すや」と。「気息(prana)によりて」と答うべし。「何によりて(わが)中性的(名称)を」。「意(思考力 manas)によりて」。「何によりて(わが)女性的(名称)を」。「語(vac)によりて。」「何によりて色を」。「眼によりて」。「何によりて声を」。「耳によりて」。「何によりて食味を」。「舌によりて」。「何によりて行作を」。「両手によりて」。「何によりて苦楽を」。「身体によりて」。「何によりて歓喜・淫薬・繁殖を」。「性器によりて」。「何によりて歩行を」。「両足によりて」。「何によりて恩寵・認識・欲求を」。「智慧によりて」。と答うべし。(梵天は)彼にいう、「実にわが世界は、これすなわち汝の(世界)なり、某々よ」と。

梵天に属するあらゆる勝利、あらゆる成功、かく知る者はその勝利を得、その成功を収う。

218ページ

いかがだったでしょうか? ウパニシャッドのほんの一部の世界ですが、触れることで何か気づきがあれば嬉しいです。

聖典 アシュターヴァクラ・ギーター 真我の輝き    

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