ウパデーシャ・サーハスリー 真実の自己の探究 シャンカラ著 前田専学(訳)
ヨギーなら一度は読みたい本の一つを紹介したい。この本を買ったとき、シャンカラってどんな人なのか知りたくて、選んだのがこれだった。
『ウパデーシャ・サーハスリー』は、インドヒンドゥー教の哲学者のシャンカラ(Shankara 700年頃から750年頃) によって書かれた書物です。 シャンカラはインド哲学のヴェーダーンタ哲学のアドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)の創始者で、インド最大の哲学者とも言われる人物、簡単にまとめちゃうと、お釈迦様やパタンジャリに匹敵するような偉い人じゃねえかってことになる。
その教えの中には仏教を批判しているが仏教思想の影響を受け、仮面の仏教徒と呼ばれたりもしている。生きていた時代も700年代という説が有力ですが、正確には不明であり謎多きインドの聖者の1人。 この謎な感じもシャンカラへの興味が増してくる理由のひとつ。
ウパデーシャ・サーハスリーとは、サンスクリット語で「千の教え」を意味するという。
アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)に関する教えは、全ての存在が一つの存在であると考え、個別的な存在は幻想に過ぎないというものです。ウパデーシャ・サーハスリーは、サンスクリット語で書かれており、ヴェーダーンタ哲学のウパニシャッドの教えを明確にするものとして重要な書類であるとされている。この本は1987年に前田専学さんにより翻訳されたものです。
シャンカラの教えから1000年以上たった現在においても、インドにおいてのメインの哲学がアドヴァイタ・ヴェーダーンタであるとされています。
訳者の前書きによると、シャンカラの門を叩くものに、シャンカラが最初にする質問は
「君は誰ですか?」だと言う。ラマナ・マハルシの問い「私とは誰か?」というのはここからきていたのでしょうか? こういう考察をするのも面白いです。
そして、まずは以下の詩句から始まります。
1−(1) 一切に偏在し、一切万有であり、一切の存在物の心臓のうちに宿り、一切の認識の対象を超越している、この一切を知る純粋精神(=アートマン)に敬礼する
ウパデーシャ・サーハスリー 真実の自己の探究 シャンカラ著 前田専学(訳)
翻訳が30年以上前なので、読みにくいところがありますが、アートマン(真我)はハートに宿ると言っているのでしょうか?
1−(3) (過去の生存における善悪の行為の結果としての業(ごう)は、(その業にふさわしい神・人間・動物などの)身体との結合をもたらす。身体と結合すれば、好ましいことと好ましくないこととが必ず起きる。好ましいことと好ましくないことから貪欲と嫌悪が起こり、貪欲と嫌悪から諸行為が起きる。
1−(4)(諸行為から)善業と悪行が起こり、善業と悪行から無知なる人は、再び同じように身体と結合する。このように輪廻は、車輪のようん、永久に激しく廻り続ける。
1ー(5) 輪廻の根源は無知であるから、その無知を捨てることが望ましい。それゆえに、(ウパニシャッドにおいて、宇宙の根本原理)ブラフマンの知識が述べられ始めたのである。その知識から至福(解脱)が得られるであろう。
1ー(6)知識のみが無知を滅することが出来る。行為は(無知)と矛盾しないから、(無知を滅することが)出来ない。無知を滅しなければ、貪欲と嫌悪を滅することは出来ないであろう
ウパデーシャ・サーハスリー 真実の自己の探究 シャンカラ著 前田専学(訳)
業(ごう)とはカルマ、身体との結合とは輪廻を指しているのでしょう。インド思想は輪廻からの解脱を目指している。 好ましいことと好ましくないことから貪欲と嫌悪が起こるというのが、善悪の評価(ジャッジ)から起こることを指しているのだと考えられて興味深い。 輪廻の原因は無知であり、無知とはアートマンを知らないことであり、無知を滅する、アートマンを知ることが輪廻から脱すること。
このような詩句が続きます。たいていは眠くなるかもしれません。眠れない日に読んでみてもいいかもしれません。
いろんな聖者や神の名前、聖典が出てきます。あらゆる方向から私とは何者なのか? アートマンとは?ブラフマンとは?と問いています。
いくつか気になるところを取り上げたいと思います。
8ー(4)私は唯一者である。その(ブラフマン)以外のいかなるものも私のものであると考えられない。同じように、私はなにものにも属さない。執着を持たないから。私は本性上執着をもたない。それゆえに私は、お前もお前の行為の結果も必要としない。不二(ふに)であるから。
ウパデーシャ・サーハスリー 真実の自己の探究 シャンカラ著 前田専学(訳)
不二(ふに)である。ひとつである。 ブラフマンとひとつである。
10ー(5)身体・感覚器官から起きる一連の苦痛は、私のものでなければ、私でもない。私は不変であるから。なぜなら、この一連(の苦痛)は実在しないからである。これはじつに夢みている人が見る対象のように、実在しないのである。
ウパデーシャ・サーハスリー 真実の自己の探究 シャンカラ著 前田専学(訳)
この身体を持った世界は夢のようなもので実在していないという。ただひとつブラフマンだけが実在している。
10ー(13)不二であるから、覚醒状態にあっても、熟睡状態にあるときのように、(実際には)二元を見ておりながら、二元を見ることなく、また同じく、(実際には)行為しながらも、行為しない人、その人がアートマンを知っているものであり、その他のなにものもそうではない。これがこの(ウパニシャッドの)結論である。
ウパデーシャ・サーハスリー 真実の自己の探究 シャンカラ著 前田専学(訳)
この詩って、ヨガニドラぽさがあるなあとか思いました。 他にもニドラな感じなとこがあります。二元性の世界において二元を見ながらも、不二であるというのは明晰夢のように夢を見ながらも覚醒しているような感じでしょうか? ここまで読んで眠くなったでしょうか? それとも言葉の美しさの海に潜っていってるでしょうか?
仏教の教えを認めているようで強烈に否定しています。
16ー(23)(仏教徒によれば)、この(一切)はじつに瞬時に滅し、間断なく生ずるダルマ(=存在の要素)にほかならない。(この一切は瞬時に滅するのであるが)、ちょうどこの瞬間の灯火が、類似性のゆえに、(前の瞬間にあった燈火と同じであるという)認識が生じるように、類似性のゆえに、これは(過去のあれであるという)認識が生ずる。この(一切)を寂滅に帰することが、人生の目的である
ウパデーシャ・サーハスリー 真実の自己の探究 シャンカラ著 前田専学(訳)
今の瞬間と過去の瞬間の類似性を確認することは不可能。 一瞬でも過ぎ去ったら、それは確かに幻想だ。ここでこう書いていることも、一瞬で過去やし。
16−39 解脱とは状態の変化である、(と主張する)人にとって解脱とは作られたものである。それゆえにその(解脱)は不安定なものである。解脱が(アートマンとブラフマンとの)結合であるとか、あるいは(根本物質からの)分離である、ということは決して合理的ではない。
ウパデーシャ・サーハスリー 真実の自己の探究 シャンカラ著 前田専学(訳)
アートマンとは不変であると言い、アートマンとブラフマンが結合することが解脱ということを否定しています。
ヨーガ・スートラのサーンキヤ学派についてもボロクソに否定しています。根本物質である3つのグナの平衡状態が破れて世界が展開するという宇宙論を、不可能だとバッサリ切っている。
16ー(45)(サーンキヤ学派は、二元論の立場に立って、宇宙の根本原理として純粋精神プルシャと根本物質プラクリティの存在を想定し、そのうち根本物質は純質サットヴァ:激質ラジャス・暗質タマスという三つの構成要素グナの平衡状態を指し、その平衡状態が破れるとき、宇宙の展開が起きると主張している。しかし三つの)構成要素グナの平衡状態が破れるということは、不可能である。なぜなら、(この状態においては)無明などが休止状態にあるからである。また(サンキーヤ学派においては、その)他の原因が認められていないのである。
16ー(47)(サーンキヤ学派の主張するように、唯一の根本物質プラクリティが)その(多数の純粋精神プルシャ)のために存在するとすれば(『サーンキヤ・カーリカー』17,31,56,57参照)、解脱した(純粋精神プルシャ)と束縛されている(純粋精神プルシャ)との間に区別をつけることは、理に合わない
ウパデーシャ・サーハスリー 真実の自己の探究 シャンカラ著 前田専学(訳)
サーンキヤ哲学のプルシャとプラクリティの二元論の矛盾をついています。 ヨーガ・スートラの宇宙論もそれは面白くはありますが、シャンカラの理論を読むと納得させられてしまいます。
ヴァイシャーシェカ学派がアートマンの声質に快感があるという性質なども知覚作用との同一はできないと否定。
まだまだ続く詩の大海。海のようだと思っていたら詩の最後、19ー28では、ヴェーダ聖典の海から知識を取り出したという表現でしめていた。
神々が(大海を)撹拌して、大海から甘露(=不死の霊薬)を取り出したように、かつて偉大な人びとが(ヴェーダ聖典の海を撹拌して)、ヴェーダ聖典の海から、かれらが最高と考える知識を取り出した。これらの諸師に敬礼する。
自分から見たら、「ウパデーシャ・サーハスリー」が大海で、その中の一部を取り上げさせていただいた。大海の小さな波としてこのブログに取り上げさせていただいた、そんな気分です。
そのあと、散文で弟子を悟らせる方法などが書かれています。 この本の恐るべしところは、解脱を求める人だけでなく、さらに解脱へ導くように弟子を指導することまで伝えていることだと思います。散文の最後にもアートマン以外に実在しない、アートマンの不二であることをウパニシャッドを考察すべしということでしめています。 シャンカラさん、マジで痺れました。やばいっす。そのうち、散文についても書きたいです。
実際に1000の詩があるのか気になっていたら、本の役者による解説では、671の詩文の韻文と散文を32音節からのシェローカで数えると376節で合計1047節から成っていると言います。
インド哲学に興味を持ったら、この本は読んでみると面白いと思います。 読むとなぜかシャンカラさんのファンになるかもです。
長くなってきたので、今回はこのくらいで。