南インドのケララから東のタミル・ナードゥ州のティルヴァンナーマライへ。ティルヴァンナーマライは南インド最大の聖地のひとつとされる。
カヌール駅から列車で13時間の予定が1時間半遅れで9時半にチェンナイセントラル駅へ。列車は2等だったけど、けっこう快適に寝れました。インドの列車は事前に予約していないと取れないなんて話を聞いていたので日本にいる間に予約をしてました。予約するためにはインドの国鉄であるIRCTCに登録をしないといけないのですが、日本の電話番号で登録するとうまくいかないなんて話もあり、実際に登録できるまで1週間かかった。
予約した列車をキャンセルして違う列車に変更したかったが、変更したい列車はキャンセル待ちが10人近くなっていて諦めた。列車で移動するときは候補をいくつか予約しておいて後でキャンセルしたらいいかもしれない。もちろんお金はかかってしまうが。 それとインドの列車って夜中に着いたり夜中に着いたりとか、そんな時間に外国の知らない土地で移動するのどうなのって思って避けてたんだけど、駅にはウェイティングルームや、泊まれる部屋もあったりするので実は夜中の移動もうまく活用すればありなのかもしれない。
チェンナイセントラル駅からオート(リキシャ)でCMBT バスステーションに行きそこでティルヴェーンナマライ行きのバスが出ているという情報だった。
インドのバスでは英語での行き先など出ておらず、バスターミナルで聞くと「あのバス乗ってニューバスステーションに行って乗り換えたらいい」と言われる。直行便出てないのか聞くと出ていないという。 本当に出ていないのか自分の英語力とコミュニケーション力の問題なのかそのバスに乗るか悩んでいたら、ティルヴェーンナマライ行くというインド人が、一緒に行こうと親切に声かけてくれて、バスで1時間ほどで新しいバスステーションにつき、めっちゃでかいバスターミナルだった。乗り換えでは彼がシートがリクライニングするバスを探してくれてそこから3時間半(途中休憩あり)でティルヴァーンナマライについた。 バスの激しい揺れでバスに乗る前に食事取らなくて良かったと思い、そしてなぜこんなに時間かけて移動してティルヴァンナーマライへ向かっているのだろうか、なんに呼ばれたのだろうかとか頭の中をよぎった。
そして近くになってくると大きな山、アルナーチャラがそびえて見えてきた。 アルナーチャラ山登るとエゴがとれるとか、登る時間は1時間とか書いてるブログ見た記憶を思い出したが、この山1時間で頂上は無理だなって思った。 多分1時間があってたら途中までしか登ってない。
ティルヴァンナーマライのバスステーションに着いたら、そこからリキシャ乗ろうと思ったが、チェンナイからバスに一緒だった人がラマナアシュラム方面に行くローカルバスまで親切に教えてくれて、と言っても途中下車して12、3分歩いてホテルにチェックイン。ホテルはけっこうあるがインドで他に泊まったとこより少し相場が高い気がした。
シュリ・ラマナアシュラム
ティルヴァーンナマライへ行こうとした理由は、シュリ・ラマナアシュラムがあるからだった。
ラマナアシュラムは、かつて沈黙の聖者と呼ばれたラマナ・マハリシが暮らしていた場所だ。
ラマナ・マハリシのことは数年前に本を一冊読んだことがあるだけだったが、南インドに行ったらティルヴァンナーマライのラマナアシュラムへ行くんだと思っていた。
本を読んだのは何年も前で細かい内容は忘れていたが、アシュラムで座っていたら本でラマナマハルシが言ったことが不思議と降りてきて、こういうことなんだって腹落ちした。
何かスピリチュアルなエネルギーのある場所という印象なだけで、なぜそこに行きたいと思ったのか、まるでわからなかった。 ホテルに着いた時は夕方16時半過ぎ、少し休んでから17時すぎくらいに出てラマナアシュラムに向かった。
泊まったホテルから5分くらい。アシュラムの中は誰もが出入りが自由。
履いていたサンダルを入ってすぐに下駄箱において、夕方はチャンティングの時間で音のするメインホールへ向かった。 アシュラム内は撮影禁止で沈黙(サイレント)になっている。 それでも撮影しまくって注意されている人もいた。アシュラムの敷地に入ってすぐに外の世界と次元が違った。空気感、エネルギーの感じ、アシュラムの中が美しくて、もし撮影オッケーだったら美しさを写真に残したいって思っただろう。メインホールでは子供たちによるチャンティングが行われていて、空いているところに座った。ただ座ってそこにいるだけで瞑想に入っていくようだった。そして、なぜかわからないが、涙が出てきた。
ティルヴァンナーマライの滞在は3泊4日と短いものだったが、滞在中は毎日行ってメインのホールや瞑想ルームに行ってただ静かに座った。座っていると潜在意識の奥にあった心の痛みが出てきて、認めたくない気持ちを自然と受け入れることができて、手放すことができた。 そこにラマナマハルシの存在を感じた。アシュラムは宿泊もできて、無料で食事も出る。 ただし1ヶ月以上前に申し込みが必要でステイできる日数には制限があるそうです。 次に行く機会があればアシュラムにステイさせてもらおうと思った。
ラマナアシュラムにかぎらずインドではさまざまなところで、食べるのに困っている人たちに無料で食事を提供している。
ラマナアシュラムの道路を挟んだ向かいには、オーガニック製品を扱っているお店があったりでリシケシみたいだった。 カヌールにもオーガニックな商品置いているお店はあったが品揃えは少なかった。リシケシでは女子が喜びそうな雑貨売ってるお店とか、タイパンツ系とかの服売ってるお店とかあったがカヌールじゃ見なかったが、ティルヴァーンナマライには少しあったが金額は2018年のリシケシよりかなり高かった。 リシケシと同じ価格だったらついつい買ってしまったかもなので、余計な買い物しなくてよかったかもしれない。
ラマナマハルシの教え
バカヴァン シュリ・ラマナ・マハルシ、彼の教えは真我探究。真我とはアートマン、本当の自分。「私は誰か?」と探究しろという。 サンスクリット語でアドヴァイダ・ヴェーダンタ、日本語では不二一元論、英語でノンデュアリティと言ったりします。
ヨガでは4つの道のひとつであるJnana ジニャーナ・ヨガ(知恵のヨーガ)である。
ラージャヨガでは瞑想により、集中から瞑想状態、サマディと深めていく、ハタヨガではクンダリーニエネルギーによりシャクティとシヴァを合一してサマディへといくがジニャーナは、直接的でシンプルで私は体ではない、心ではない、思考ではないと私でないものをすべて取り除いて、最後に残ったのが真我であるという。シンプルなゆえに難解だ。 ヨガのポーズであろうと瞑想だろうと何かDoingしていれば先に進んでいる気になる。
アルナーチャラ山
「アルナーチャラを想えば解脱を保証する」
南インドで古くから言われし言葉だという。
アルナーチャラはシヴァ神そのものだという。シヴァは破壊と再生の神でインドで最も人気のある神様。シヴァはブラフマンでありアートマン。 ヨーガの神様でもあり、タントラやハタヨガではシヴァとシャンクティの合一を目指す。
アルナーチャラを登る入り口は2カ所あって、(もっとあるかも?)、一つはラマナアシュラムの北にある。
ティルヴァーンナマライ2日目はアルナーチャラ山を登った。
朝日の出くらいにホテルを出て途中のビュースポットまで行くつもりでいた。
頂上に行くつもりなかった。下から見るとかなり高そうだし、道もやばそうだった。
途中にラマナマハルシが7年間暮らしたというスカンダアシュラムがあったがオープンが8時半だったので、それまでどこか景色良いところで瞑想でもするかと思った。
もう一つの入り口からの道とのところについたところで、インド人らしき人が上がってきて、声を変えたら「瞑想するなら来い」と言われてついていったら、バカヴァンが瞑想していたというポイントや、その人が瞑想しているという特別な場所でここで好きに瞑想していいと言われた。
15分か20分か短い時間そこにいたらもう少し上に行こうという気になって歩き出したら、またさっきの人に会い上に行っても景色は良くないと言われたが、とりあえず先に進んでみた。
けっこう道がハードで疲れてきたのでそろそろ引き返そうとしたタイミングでウクライナ人の青年が瞑想していた。そして彼と一緒になぜか頂上を目指して歩くことになった。
ちなみに裸足で登った。 裸足で登るということになってるとかなっていないとか、よくわからないが裸足はとくにキツくなかった。旅の疲れで体力も落ちていて、登ってる間足がどんどん上がらなくなってマジキツかった。呼吸はゼーゼーハーハーいい、何度も途中でもう無理、引き換えそうって思った。登っても登っても頂上は遠く、頭の中は思考がぐるぐる回った。9時10分くらいにようやく頂上へ。途中瞑想したり、何度も休憩しながらだったがホテル出てから実に2時間半。
帰りも2時間かかった。帰りはスカンダアシュラムによって瞑想をしてたら猿が荷物を荒らしはじめたので、撤退した。
降りたら足がガクガク。 水は1リットル持っていったが、全部飲み切った。もう1リットルあっても飲めたはず。 午後はぐったりしてホテルで休んで、夕方にまたアシュラムへ行った。
アルナーチャレスワラル寺院
ティルヴァンナーマライの中心にはアルナーチャレスワラル寺院がある。 アルナーチャラ山からも一際目立って見えた。 せっかくなので行ってみたらすごい人で中に入って出るのの1時間くらいかかった。 人が多すぎて酸欠になるかと思った。 建物は一見の価値あり。
静寂と恩寵
ラマナアシュラムのなかは瞑想も探求も自由だし、誰に何をしろともするなとも指示されない。 ただ静寂の中でそこにいた。
それは瞑想でも探求でもなかったが、結果的には瞑想だったし探求だった。私たちはみんな何かを得たい、手に入れたい、幸せになりたい、引き寄せたい、お金が欲しい、パートナーが欲しい、旅に出たい、他人に認めて欲しい、さまざまな欲のなかにいるが、本当に求めているのは精神的なもの。 それが神、宇宙、真我だとか自分自身の本質とつながること、触れることなんだと思う。そして人は求めるけど、実はずっとそれと共にいる。 何か見えないエネルギーや縁を人は感じている。本当は何もかもずっと与えられている。恩寵のなかにいる。 ヨガの4つの道もあるいは、別の道に見えるタントラもすべては最終的には、明け渡すことだった。 自分というエゴを手放し明け渡すこと。自分というエゴが人を苦しめている。 苦しみはマーヤ(幻想)だし、苦しんでいる人はいない。
日本に帰ってきてアルナーチャラや、ラマナを思う時、どこにいても今この瞬間に自分の中でアルナーチャラもあるし、ラマナマハルシもいる。 シヴァも自分の内側にいる。 もちろんあなたの内側にも。 私とあなたという分離した個人も消えていく。