人と思想シャンカラ 島 岩 著

インド哲学

インド最大の哲学者といわれるシャンカラのことが知りたくて数年前に手にした本について、やっと感想を書いています。シャンカラのことは以前にウパデーシャ・サーハスリーについて書いているのを読んで欲しい。

ウパデーシャ・サーハスリー 真実の自己の探究 シャンカラ著
 ウパデーシャ・サーハスリー 真実の自己の探究 シャンカラ著 前田専学(訳)ヨギーなら一度は読みたい本の一つを紹介したい。この本を買ったとき、シャンカラってどんな人なのか知りたくて、選んだのがこれだった。『ウパデー...

著者は島岩(しまいわお)さん。 インドにシャンカラに会いにいった話があり、シャンカラって現代にいるのっていう驚きがあった。 現代に4人いるらしい。 初代シャンカラは4つの僧院を建立したとされ、それぞれに弟子が法主となり、代々の法主がシャンカラ師と呼ばれているという。ヒンドー教において僧院制度を作ったのはシャンカラで、それ以前に僧院制度のできていた仏教の影響があったという。

自分が興味あるのは、初代シャンカラで、シャンカラの作品は16の文献があり、ウパニシャッドへの注釈が10あり、バカヴァッド・ギーター、プラフマ・スートラ、ヨーガ・スートラ、律法経、ガウダバーダのマーンドゥーキヤ頌への注釈、そして独立作品としてウパデーシャ・サーハスリーがある。

この本ではインド思想の歴史、ヴェーダ聖典について、ウパニシャッドについて、六つの哲学学派についてや西欧近代との出会いやヴェーダ聖典の復興などカオスなインド哲学をさまざまな方面から考察していて、シャンカラとの関係性が本の前半は、なかなかわかりにくいが、インド哲学の立ち位置を整理するのにはとても役立ちます、

因果論についての考察がわかりやすかった。

インド哲学における因果論は、基本的には世界原因とその結果である世界の関係を説明する理論である。それには三種類あり、そのそれぞれが三種の宇宙論と対応している。

82ページ

原因と結果の関係について。

まず第一は因中有果論である。これは、原因の中に結果がすでに存在しているという学説である。たとえば、粘土から壺ができたとすると、壺はそれが発生する以前にすでに、まだ壺という形をとっていないものと、粘土のなかにすでに内在していたと考える。すなわち、逆に言えば、壺とは壺の形に変容した粘土に過ぎないと考えるのである。つまり粘土と壺は質的に連続しているのである。この因果論に基づくのが、サンキーヤとヨーガとヴェーダーンタであり、後世のタントリズムもそうである。だが、そのなかでも代表的なのがサンキーヤ学派である。

82ページ

これがいわゆるヨーガ・スートラのプルシャとプラクリティという思想のもとになっている。

因果論の第二は因中無果論である。これは、原因の中に結果がすでに存在することを否定する学説である。すなわち、原因と結果とはまったく別個のもので。結果はまったく新たな存在だと考えるのである。 ー略ー この因果論に基づいたのは、ミーマーンサーとニヤーサとヴァイシェーシカだが。その中でも代表的なのが、ヴァイシェーシカ学派である。

85ページ、86ページ

因果論の第三は果中有因論である。これは、結果の中に存在するのは本当は原因だけであるという説である。結果だと考えるのはわれわれの誤った思い込みに過ぎず、本当に存在しているのは原因だけと考えるのである。

86ページ

シャンカラたちの不二一元論学派。世界はマーヤ、幻想でただブラフマンのみが実在する。

アートマンとは、何かブラフマンとは何かという考察が興味深い。シャンカラの視座について、島さんはこのように言っている。

瞑想の過程の中で、外界の事物から内官までが消滅していくとき、それをシャンカラはどこから見ているかという視座の問題である。彼が見ているのは、一貫して意識の側からなのである。

119ページ

世界は仮想現実、バーチャルリアリティである可能性が99%以上だという科学者の意見を見たことがある。 意識の外側になったとき、外側の事物は消滅する。

この(ブラフマンとアートマンの同一性)認識は、無意味であるとも、錯誤であるとも言うことができない。なぜなら、(この認識によって)無明の止滅という効果が経験されるからであり、(この認識を)拒斥する他の認識が存在しないからである。

132ページ

究極的な認識根拠に基づいて、(ブラフマンと万物の)アートマンとの同一性が明らかにされたときには、それまで存在していた区別に基づく日常的経験は拒斥される。

134ページ

ブラフマンとアートマンの同一という認識、これを悟りとして、他の認識の止滅。世界が消えるというようなこと。

さらにいくつか気になるところを紹介します。

「ブラフマンは、永遠であり、清浄であり、悟っており、解脱している。」というシャンカラが好んで用いるフレーズがある。

145ページ

そして、名称と形態とは異なるものは、ブラフマン以外はありえない。なぜなら変容物の総体すべて(=現象世界)は、名称と形態として開展したもの以外のなにものでもないからである。さらに、名称と形態を完全な形で開展することは、ブラフマン以外にはできない。というのは、「私はこの生命あるアートマンと共に(これらの三神格)入り、名称と形態を開展しよう」などの天啓聖典が、ブラフマンが創造主であることを述べているからである。

153ページ

無明によって誤って構想され、「それ」であるともそれとは「別のもの」であるとも表現できない「未開展の」名称と形態が、全知の最高神そのものであるかのように「思い込まれ」輪廻や多様な現象世界の原因となるのである。

158ページ

なぜなら、最高のアートマン(=ブラフマン)が「現象世界の生起・存続・帰滅という」三種の状態を顕現するのは、単なる幻にすぎない。ちょうど、縄が蛇などの状態で「顕現する」ように。

159ページ

シャンカラ師のあらゆる言葉が時代を超えて、言語を超えて響きます。

しかし(解脱は)、最高の実在であって、変異することなく永遠であり、虚空のように偏在しており、あらゆる変化と無縁で、常に充足し、部分がなく、本性上自ら輝いている。それには、ダルマ・非ダルマおよびその果報(楽と苦)が「過去・現在・未来」三時に渡って伴うことなく、そのような身体のない状態が、解脱と呼ばれるのである。

179ページ

解脱についての語り。

シャンカラの不二一元論、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ、梵我一如。 アートマンとブラフマン、小宇宙と大宇宙の合一とされるが、島さの本の考察を読んで、アートマンとブラフマンは元々が一つで分離していない。 一つになるという行為があるのではなく、知識として知り、意識として気づく。 解脱という状態があるというより、ブラフマンは解脱であり、身体のない状態、本来の状態を離れているのは無明によって。

本の前半はかなり読むのが大変だったが、後半に進むほど面白くて、何度もページを戻りながら読むことができました。

著者のインド哲学への探求に深い感謝を祝福を送りたいと思います。

聖典 アシュターヴァクラ・ギーター 真我の輝き   

ウパニシャッド 辻直四郎著

  

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