ヨーガ・スートラの1章の33節について、 スワミ・サッチダーナンダ著のインテグラル・ヨーガにおいてヨーガをやっていない人にもこの章は覚えておくことをすすめている。
Sutra 1.33
maitrī karuṇā mudito-pekṣāṇāṁ-sukha-duḥkha puṇya-apuṇya-viṣayāṇāṁ bhāvanātaḥ citta-prasādanam
マイトリー カルナー ムディトーペークシャーナン スッカ ドゥッカ プンニャ アプンニャ ヴィシャヤーナーン バーヴァナータハ チッタプラサーダナン サンスクリット語。
まるで読めませんが、ヨガ哲学の勉強するのには必須だと思うこのごろです。
他の幸福を喜び、不幸を憐れみ、他の有徳を欣び(よろこび)、不徳は捨てる。そうした態度を培うことによって、心は乱れなき静穏を保つ。<インテグラルヨーガ新刊の日本語訳>
解説では、個人の在り方を幸福、不幸、有徳、不徳の4つに分類して、それぞれに友愛(慈)、同情(悲)、欣喜(喜)、無関心(捨)で備えるということ。
これは、仏教にも慈悲喜捨(じひきしゃ)、四無量心(しむりょうしん)という教えです。
マイトリーが慈、カルナーが悲。
菅原誠さんのハタヨーガ・プラディピカーの解説の6ページに、ヨーガスートラ1−33について触れていて、少し紹介します。
「maitri マイトリー 〜に対する好意、友情、親交、慈愛、慈悲心、情け深い、博愛の、近しい接触、平等」
「karuna カルナー 悲しみ、嘆き、哀れみ、同情、憐憫(レンビン)」。
citta チッタ(心)が清澄(せいちょう)になれば、これらの心は自然と出てくる。
「慈・悲」の気持ちとは心理学でいうところの、「共感」の力。 ヨーガの段階が進むに連れて、この感受性が強くなる。 物事を達観する力と共感する力は一見相反するようだが、同じ方向で進んでいく(高まっている) 菅原誠さん著「ハタヨーガ・プラディピカー から、いくつか抜粋させていただきました。
達観=物事に動じないで広い視野で見る力という意味で、何かあっても動じないが、他者への慈愛、共感=エンパシーや慈悲=コンパッションの力は同時に強くなっていくのでしょう。 慈・悲・喜・捨、この4種類について、これから自分の受け取っていることを書いていきます。
幸福に友愛(慈)
人間は自分と他者を比べたり、人が幸せでの羨んだり、妬んだり、悪いところを探したりしてしまう。
特に自分が幸せな気分のときは喜べても、辛い時などは他人の幸せを見ると辛く感じたりします。 他人が持ってるものを自分も欲しがったり、嫉妬や執着を手放して、他人の幸せな気持ちに共感をすることは誰でもできる。
誰もが幸せでいたいのだから、幸せを感じている他者の気持ちを大事にすることが大事だと思う。
不幸に同情(悲)
ここでいう同情は、不幸な相手をかわいそうな人と憐れんだり、怒っている人と一緒になって怒ったりではなく、共感 エンパシーと慈愛 コンパッションを持って相手の感情を受け入れて、ともにいることではないかと思う。
誰かが何か辛い状況になっているとき、その人の行動が本人に帰ってきたのかもしれません。そんなことになったのは、お前が悪いんだ、罰を受けて当然だって思うかもしれない。どういう状況によって不幸な状況や辛い状況になっているかではなく、今この瞬間に目を向けたら、ただ苦しんでいる人がいるという、それだけでしかない。
転んで怪我をして血を流している人がいたら、転んだお前が悪いんだって言わずに、まずは止血して治療するように、相手の痛みに共感はできる。 NVC 非暴力コミュニケーションでは、満たされていても満たされていなくても、共感(相手の感情とニーズを大事にする)によってつながることができると考えているのと、とても近いと思う。
有徳に欣喜(喜)
良い行動をしてる人に対して、自分もそうじゃなきゃとか、そうあらねばいけないとか、あるいはここでも出来ない自分とかダメな自分と比較して嫉妬をしたりしてしまうことがある。 他者への嫉妬や自分への非難ではなく 素晴らしい人に出会えたこととかに、素直に喜ぶこと。これはお祝いすることだなって思う。 お祝いと感謝に変えたいと思う。
不徳に無関心(捨)
最後の4つめを読んだ時、「えっ!!無関心?」って思いました。 ここを理解することに時間がかかった。 不徳な人に出会ったら無関心ってどういうことだろうか。
不徳な人とは、誰か他者の言動を良くないって思うことで 不徳と思うのは誰だろうか? 他者の行動を見て善悪のジャッジをして、心を揺さぶられて、あいつは間違っていることをしているってイライラしたり、悪いことをしているから罰を与えるべきだと思ったりする。
他者の行動に心が揺さぶられるのは、相手の行動や言葉に原因があるのではなく、自分の心の奥に何かしら種がある。 不徳の行為に関心を持つのではなく、自分の心の何が反応しているのだろうか?その心を観察して、気づくことが大事だと思う。 そうは言っても悪い奴は悪いだろって思っても、他者への反応は自分の心が鏡のように何かしらが反応している。そこに気づかずに何かを変えようとかしても、同じような出来事がなんども繰り返される。 外側から内側へベクトルを変える。 無関心、捨てるということは一見相反しているようで、それが出来ると自然と他人への慈愛 コンパッションが育っていくのだと思う。
これこそマジなアヒムサ 非暴力の実践だと思う。 たった一行に込められた言葉のパワーを感じました。 パタンジャリ先生に感謝と祝福を祈ります。
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パタンジャリのヨーガ・スートラを学ぶ 1章1節 Atha アタ
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