ヨーガ・スートラ 数あるヨガの経典の中でももっとも知られているバイブルであり、ヨガを実践するなら読むのが必須だと言われている。ヨーガ・スートラを読むといっても原文はサンスクリット語で書かれていて、そのままでは理解が難しいので、解説本がたくさん出ていて、それを読むのが一般的です。
解説本が日本語で書かれているものや、日本語に翻訳されたものがいっぱいある。 日本語で書かれていることをそのまま思考で理解しようとすると、勘違いや思い込みで変な理解をしてしまう可能性があると思う。 自分の過去の経験や知識で理解しようとしていたら、勘違いしているかもって思って欲しい。
ヨーガスートラが書かれた時代については諸説あるが、1600年ほど前にまとめられたのではと言われている。まとめたのは聖者パタンジャリ師。
前にパタンジャリのことを書いた記事もあるので読んでみてね。
ヨーガ・スートラは古典ヨガの4つの1つのラージャ・ヨーガの経典と言われる。ラージャ・ヨーガとは王様のヨガ。 現代で知られているハタ・ヨーガとはラージャ・ヨーガへの道とされている。 ハタ・ヨーガについても書きたくなるが、脱線するので、それは別の機会に。
とりあえず、自分が購入した本を4冊ここで紹介します。
ヨーガスートラの解説本、TTCのときにすすめられたのが、インテグラル・ヨーガ。定番の一冊。
青い本として知られていたが、2020年新刊になった白い本になった。新刊は値段は高くなったが、サンスクリット語つきなので、これから購入する人はぜひ新刊を購入して欲しい。
インテグラル・ヨーガ
スワミ・サッチダーナンダ著 翻訳 伊藤久子さん
自分が最初に購入したのは、グレゴール・メーレの現代人のためのヨーガ・スートラ。表紙の絵が気にいったのですが、横書きで書かれているのが読むのに好みが分かれそうです。
現代人のためのヨーガ・スートラ
グレゴール・メーレ著 伊藤雅之 監訳
ヨーガ根本教典 佐保田鶴治著
日本語で書かれた解説本、ヨガで有名な佐保田鶴治さんが著者。ハタヨガ・プラディービカーの解説もついている。古くて文字が小さいが歴史を感じる。ハタヨガ・プラディービカーも読むと面白い。
インテグラル・ヨーガの新旧2冊とグレゴル・メーレさんと佐保田さんの本の4冊の解説から、ヨーガ・スートラを追いたいと思います。
今回は第1章の1節から4節について。この最初の4節がヨガについての説明で、あとはそこに到達するための説明だとか。
以下のように略します。
(イ新)インテグラル・ヨーガ 新刊
(イ旧)インテグラル・ヨーガ 旧版
(現グ)現代人のためのヨーガ・スートラ
(根佐)ヨーガ根本教典
第1章 サマーディ・パダ(三昧部門)
第1章はサマーディ、日本語だと三昧。 悟りと言われたりもする。悟りについては仏教などにもあるが、ヨーガ・スートラの話だけを取り上げたい。
Sutra 1.1
atha yoga-anuśāsanam
アタ ヨーガ ー ヌシャ ー サナム
(イ新)これよりヨーガを詳細に説く
(イ旧)これよりヨーガを明細に説く
(現グ)さて、ヨーガの権威ある教えを始めよう
(根佐)これよりヨーガを解説しよう
これからヨガについて解説するよ、教えるよって言ってると流してしまいがちだが、この一行目が大事だよって教えてくれた人がいました。
atha(アタ) 「さて」、「これから」
ヨーガ 「結ぶ」、「結合」、「一つ」
これはすでに学ぶ準備が整った人に向けての言葉だという話もあります。
Sutra 1.2
yogaś-citta-vr̥tti-nirodhaḥ
ヨーガスチッタヴリッティニローダハ
(イ新)心の作用を死滅することが、ヨーガである
(イ旧)心の作用を死滅することが、ヨーガである
(現グ)ヨーガとは心のはたらきを死滅することである
(根佐)ヨーガとは心の作用を死滅することである
ヨーガスートラでもっとも有名な場所ではないでしょうか。
これを読んで心を止めるって思わなないで欲しい。
citta(チッタ)とは、心の総体。ところで心って何でしょうか?
ヴリッティは作用、はたらき。
ニローダは死滅とか、制御と言われている。
インテグラル・ヨーガとグレゴル・メーレの解説ではチッタ(心)について、心を3種類に分けている。チッタの3種類はサンキーヤ哲学からきているのではという。
ここでサンキーヤを学びたくなるところですが、すすまないので、それはまた別の機会に。
心の3種類について、理解することがヨーガスートラを理解するためには必要だと思う。
1つめ マナス(manas)
マナスは欲や感覚。グレゴルメーレによるとマインド、思考原理。
2つめ アハンカーラ(ahamkara)
アハンカーラは自我、私というのを作っている人。
アハム(aham)は私、 カーラ(kara)は配役係
3つめ ブッディ(buddhi)
ブッディは知性、判断すること。
何を死滅、制御しようと言っているのだろうか? 心を無にしろって言っているのではないってことです。
制御しようとするものが何か知らずに制御できるのでしょうか? ヨーガの実践をしているのであればゴールを知らずに、進んでいても道に迷うだけでたどり着けないのではないか。
Sutra 1.3
tadā draṣṭuḥ svarūpe-‘vasthānam
タダー ドラシュトゥフ スヴァルーペ ヴァスターナム
(イ新)そのとき、観るもの【真我】は、それ本来の状態にとどまる
(イ旧)そのとき、観るもの【自己】は、それ本来の状態にとどまる
(現グ)その時、見る者は本来の姿にとどまる
(根佐)心の作用が死滅されてしまった時には、純粋観照者である真我は自己本来の状態にとどまることになる。
1.2の心の作用を死滅(制御)したときのことを1.3では書いている。
draṣṭuḥ(ドラシュトゥフ)とは観る者、解説では真我とか自己、意識、プルシャとかアートマンとか言われたりする。
ここでまたサンキーヤ哲学で、世界はプルシャ(真我)とプラクリティ(自性)の二元論になっているとされている。チッタ(心)はプラクリティからできている。
Sutra 1.4
vr̥tti sārūpyam-itaratra
ヴルッティサールーピャミタラトラ
(イ新)その他のときは【真我】は、心のさまざまな変化に同化した形をとっている【ように見える】
(イ旧)その他のときは【自己】は、心のさまざまな作用に同化した形をとっている【ように見える】
(現グ)そうでない時は、心のはたらきと同じ形を帯びるように見える。
(根佐)その他の場合にあっては、真我は、心のいろいろな作用に同化した形をとっている。
1.4では、1.3以外の場合、サマーディにいたっていない状態、心の作用が止まらないとどうなっているかを説明している。見る者が見られる側である心に同化しているということですね。
心を自分だと思っていないか? あるいは体を自分だと思っていないだろうか? 見るものと見られるものはどこにいるのか?
この1.4までで、ヨガスートラでのヨガの目的は、心の作用の死滅というのは、真我(本当の自分)になる、あるいは本当の自分に戻る、ただこういう風に書くと本当の自分というのがどこかにいるのを探すというよりも、気づく、自分ではないものへの同化から離れる、なかなか言語で表現することができるのか?いろんな人がいろんな言葉で解説を試みていることからも、受け取る人で変わってくるでしょう。解説だけでなくサンスクリット語の意味を読むことで、より深く繋がってくるのではないでしょうか。
ヨーガスートラについて続きも少しずつアップしていく予定です。
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パタンジャリのヨーガ・スートラを学ぶ 1章1節 Atha アタ
パタンジャリのヨーガスートラを読む 1章5節ー6節 ヴリッティ(心の作用)