1954年に書かれたヨガ本。日本語訳は1971年。タイトルは、ヨーガ。 今の時代だったらこのタイトルでは出版できないよな。古い本で文字は小さいがヨーガ(ヨガ)についての解説本というのか名著であると思う。著者のポール・マッソン・ウルセルさんは、フランスの東洋学者でインドの歴史、宗教、哲学からヨーガを広く深く洞察されていて、現代でも次々に出ている多くのヨガの本でもここまで多くの文献からヨーガについて書かれている著書はなかなかないはず。ヴェーダ、初期仏教、ジナ教、ウパニシャッド、ヨーガ・スートラ、大乗仏教、タントラ、スーフィー、さまざまな文献から整理して書かれていることがヤバすぎる。自分も一年前に読んだらまるで理解できなかったかもしれない。今なら理解できるとは言えないが、読んでこの本にタッチすることで、今まで学んできたことが繋がり、深まっていくようだ。
使っている言葉も美しくて、そのセンスに惚れてしまう。
ヨーガ行者は経験論的実用主義者の創始者である。
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漢字が続くと読みにくく何を言ってるのかってなるが、経験論的実用主義者ってまさにって感じがします。
ギリシア人たちは唯美主義者でかつ武人であった。ヨーガ行者たちはけっしてそうではない。十七世紀の語法に、ヨーガ行者においては霊魂がそれを宿す主人であるというものがあるが、それ以外にヨーガ行者に肉体と結ばれていると考えうるどんな実体も認めていない。
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なぜかギリシア人とヨーガ行者が比較されているのだが、現代のヨーガというと身体の健康とやたらと身体に固執されているわけだが、さらっとヨガと肉体との結びつきについて書いていたりします。
ジナと仏陀とは世間に知られた最初のヨーガ行者であって、この二人の苦行は祭式一切から免れているという点で異例の壮挙である。この二人はヨーガによって自己を鍛えあげたのであるが、そのヨーガは信仰でもなければ崇拝でもなく、精神生理学の範疇に属する見事な肉体訓練である。この起源はどこにあるのだろうか。それはなんらかの聖なる規律のなかに求められるべきであろうか。
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勝者ジナと覚者仏陀とがたどった道は、解脱への道の模範的例である。
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ジナと仏陀について、かなりのページと文字を使って書かれているのだが、彼らがヨガ行者だったという認識は多くの人にないのではないかな。 彼らこそヨガ行者の最も先を行っていた人であって、そして彼らなしに現代に連なるヨガがありえなかったかもしれない。
ヨガはもともとバラモン教の僧侶たちの修行法であったという説が有力だと理解していたが、著者によると違うようだ。
バラモン教はヨーガというものを徐々に取り入れていくが、ついにそれは必要に迫られてバラモン教のなかに根をおろすことになる。この場合、バラモンたちはジナ教と仏教という二つの邪教と対抗せざるえなくなった。
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この2つの宗教がバラモン教にヨーガこそが解脱への道だとヨーガ化させたという。
タントラ(tantora)とは祭式と儀礼に関する教団の聖典という意味である。ヴィシュヌ教の場合それをサンヒターとよばれ、シヴァ教の場合はアーガマとよばれる。この両者と異なる第三の形式が性力派であり、独自のタントラを有してある。
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何かと誤解なのか、怪しさなのかタントラヨーガについても考察されている。 タントラで最も注目されているであろう性的なヨーガはタントラのひとつでしかない。こういうことをちゃんと説明せずにというか知らずにタントラが一人歩きしてしまっている面があると思う。 何年か前にタントラの講座に動画で参加したらフランス人の先生がやたらとセックスという言葉を連呼していて、何が言いたいのかまるで意味不明だったことがある。性について伝えたいならそれはそれでいいと思うけど、一部を切り取って伝えてしまうことがあまり好ましくないし、もちろん短い時間で伝える難しさもあるだろうけど、できるだけ本質は何なのかというところを大事にしたいって、教える立場で思います。
ヨーガはバラモン教と緊密に合流し、サーンキヤ体系の実践面として体裁を整えて諸哲学派の間で承認されたわけだが、ヨーガの起源である<バラモン教の外>という点が忘れ去られたのではなかった。ヨーガは、仏教徒とジナ教徒が自己の要訣として取り入れたときと全く同じように、あらゆる人々ための(カーストの外の人々たちも含めて)激しい熱情であることに変わりなかった。
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こういう視点なのかというのがこれでもかと書かれていて読み直すたびに何かしらの発見がありそうです。
言葉のセレクトのしかたと翻訳の絶妙さが古さはあるが、知識でこういうことをいうのだろうなと思いました。あらゆる人々のための激しい熱情なんて、こんな表現ができるようになりたい。大変面白い一冊です。ぜひ、手に取って読んでみてください。