禅 空を生きる アジャシャンティ著 訳は鈴木純子さん。 アメリカで大人気の覚者アジャシャンティと帯に書かれている。 アメリカは広いからか覚者やスピリチュアルリーダーと呼ばれるような人たちが、いっぱいでてくる。どこまでが本物で偽物かは、わからない。日本でも悟りとか非二元とか言ってる人たちいるが、きな臭い人も多いなあと思う。著者のアジャシャンティは、読んでいてホンモノの香りがする人。さて、現実はどうでしょうか。
数年前に最後の目覚めを体験する以前、私は取りつかれたように悟りを追い求めていました。禅の探究には少し変人にならなくてはなりません。
23、24ページ
何かを得るというのは、求めるということ、欲しい、手にしたいと求めること、求めることが現実になるという。
「これは本当に私なのだろうか?」という子どものように不思議に思う気持ちから真の探求が始まります。
40ページ
Who am I? 私は誰か? ラマナ・マハルシの問い、そしてシャンカラ師も同じように問いかける。アドヴァイタの伝統のような問いかけであり、シンプルな疑問のなかになぜ、そのようにといかけるのかということが、自分たちの私という認識の間違いや、思い込みがあることへの気づきをしめしてくれている。
自由とは、深淵なまでの静けさと安らぎの未知なる世界が自分自身だと知ることです。
74ページ
この言葉がとても深く心に響く。静けさのなかにしか本質は存在しないんだっていうことに最近自分も気づきがあった。
私たちが概念を追い求めることに執着しない限り、神秘はつねにその姿を現してくれています。
76ページ
生きていることって神秘のなかに生きている。日常の当たり前に忘れさられてしまいがちですが、神秘しかない。生命は神秘が連なっている。
真のスピリチャルな衝動や切望とはマインドを超えた世界への誘いです。だからこそ「神のもとに行く時、あなたは何も持たずに全裸になるか、あるいは行かないかのどちらかだ」と言われるのです。
132ページ
マインドを超える、どうしても人はマインドを使って日々生きているので、そこから超えることが難しくなっている。 これを言葉で説明することって本当に難しく、大自然のなかにいるか瞑想をトレーニングするかとか、あるいはマインドそのものが疲れきってしまうくらい使いまくるとかでないと腑に落ちにくいと思う。
「道でブッダに出会ったら殺しなさい」という言葉がでてきます。
184ページ
仏陀本人の言葉として、どこかで読んだか聞いてことのある言葉。あらゆる真理の教えでさえ、それが観念や思い込みになる。カルト宗教とかにハマってしまうのは教えが100%正しいと信じてしまうことで、自ら探求する可能性を捨ててしまっているからで、誠実に何かを求めて進むことは素晴らしいこともあるが、本来手放すべきはどっちなのだろうかと、問いを持っておくことも大事だと思う。
本の中でアジャシャンティは、自分の中で起きた悟りのプロセスというか目覚めの体験の話が出ている。こういう体験の話は読んだ人、聞いた人、受け取り方で、変わってくると思うが、大事なことは体験そのものではなく、その体験の話自体は面白いが、そういったストーリーは何か意味があるわけではなく意味つけをしているだけでしかなく、そこに流れているエネルギーだったり、その話にタッチしたときに感じる繊細な言葉にできない感覚にこそ、大切にしたいことがあるというように思います。
こういった目覚めや覚醒、悟りといったことを書いた本なども多く、このウェブの記事にもたびたび書いていますが、誰かに何かが伝わったら嬉しいです。 この本のことも書こうと思ってから書くまで時間かかったが、また別の本のことなど書いていきたい。