化けの皮が剥がれたら

コラム

不真面目なのか? 真剣なのか? 適当なのか? いい加減なのか? ふざけているのか? 遊んでいるのか? 

「対立をナマケる」とか「チョコっと共感」とか「共感の海を泳ぐ」とかワークショップのタイトルも内容を読まないと意味不明だったり、自由とか慈愛とか革命とか言っちゃって、頭の中がお花畑なのか、キチガイなのか、怪しい人なのか、優しい人なのかも、わからない感じでワークショップの告知文を書いていて、それでも毎回参加してくれる人が、それなりにいる。

これは最高なことで、お祝いだ。 

話がズレるが、インドのリシケシでアーユルヴェーダの病院でギーが身体に合うと言われて、オーガニックな高級なギーを買ったのを摂取しているんだけど、ぶっちゃけ今のところ効果はわかっていない。

 

インド リシケシでアーユルヴェーダの診断を受けてみた 

ギーというのは牛乳からとったオイルで牛が何を食べているかというのが大事らしい。

ギーについて書き始めたら、ギーのことをもっと書きたくなってきて、どんどん脱線しそう。 

これ何を言いたくて書き出したかって言うと「自分の身体を大事にする。」ってただこの数文字のことで身体を自分の物だと認識しているわけなんだけど、自分の身体と思っているこの身体は本当に自分の物だろうか?自分の意思や考えで動くから、自分の物なのか? それとも身体は魂が乗っている乗り物にすぎないのだろうか? そんなことを考えたことがある人は、けっこういるんじゃないかな? どうだろうか?

自分の身体を大事にする。」から、「自分を大事にしましょう。」と聞いて今度はどう思うかな?

身体という言葉が抜けただけで、何か大きく変わった感じがして、自分を大事にするのは誰なのか、誰が誰を大事にしようとしているのか、誰が何を観ているのか、自分を観ているもう一人の自分がいるような、そんな感覚には何があるのだろうか? 

自分自身へのジャッジメントで「私はダメなやつだ。」とか「私には価値がない」とか「私は愛されていない」、「私は一人ぼっちだ」とかネガティブなビリーフ 信念に気づいたときに、私を観て評価している私は誰なのだろうかって、そのときジャッジメントをしている私は存在していない。

まるで仮面と話していたけど、仮面の中には誰もいなかったかのように。 

そう気づくと、私たちが毎日ぐるぐるとご飯のことを考えたり、彼女や彼氏のことを考えたり、次の日の仕事のことを考えたりと、止まらない思考も、一体誰が思考をしているのだろうか?

前回のブログ記事で書いた正しいか間違っているかというゲームに参加しているのも誰なのだろうか?

正しいか間違っているかというゲームそろそろ終わりにしませんか? 

そろそろ化けの皮が剥がれてきたんじゃないでしょうか。

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