ヨガ人口の8割から9割は女性で、男性は肩身が狭いとか女性ばかりでヨガクラスに参加しにくいなんて声を聴くことがあります。しかしヨガはもともとは男性が修行していたもので、女性がヨガを実践するようになったのは100年くらいとか言われています。実際のところヨガの教典は男性目線で書かれていて、現代だったら男女差別じゃねえかとか言われてしまうかもしれない。
ヨガというとアシュタンガ、パタンジャリのヨーガ・スートラ。ヨーガ学派、サンキーヤの流れのヨガは瞑想のヨガとかラージャヨガとか、日々の生活の戒律を大事にしたり、心を鎮めることを大事にしている印象。バラモンとか出家しているお坊さん的なイメージ。
一方でハタヨガはハタとは太陽と月とか、力という意味があるとか言われるが身体的な行法を行うことに重きをおいているように見える。インドの北部、ヒマラヤ、ネパールなどのリシたち、ハタヨガの開祖とされるゴーラクシャ・ナータのナータ派は仏教タントラとヒンズーシヴァ派を合わせたタントラ密教だったという。 バラモンの修行のヨガとインド北部の土着の信仰と仏教が混ざり合って進化していったのでしょう。禁欲や戒律にこだわらないというより、むしろ性的なエネルギーを使うことで解脱や真理に近づいていく。 禁欲しろって言われても、現世の欲を楽しみたいしとか現実的に思えるが、修行法を見ると決して快楽とか楽をしているとは思えない。
ハタヨーガの古典書と言われるハタヨーガ・プラディピカー。書かれたのは17世紀頃で古典というほど古いのかって仏教が生まれた時代とか、ヴェーダの様々な教えが生まれたときに比べるとつい最近のような気がするが、ハタヨーガ・プラディピカーには性的なヨーガについても書かれていて、それも少しではなくかなり書かれているので大事なことだったと推測できる。
翻訳は菅原誠さんのハタヨーガ・プラディピカーから。
ヴァジュローリーについて
以下が、ヴァジュローリーである。ヨーガの教えの規律に従わず、気ままに生活を送りながらも、ヴァジュローリを熟知する者、彼はシッディに当たり得るヨーガ行者である。
ハタヨーガ・プラディピカー 3−83
ヴァジュローリーというものの解説に入っているのですが、規律に従わないとか書かれているのがハタヨガらしくて好きなとこだったりします。
その、誰にも得られるわけではない、ふたつのものを私は語ろう。ひとつは乳であり、ふたつめは従順な女性である。
ハタヨーガ・プラディピカー 3−84
行法に必要なのは牛乳と女性という。 男性目線だね。
陰茎によって、ゆっくりと、正しく、上方に収縮することを修するべきである。ヴァジュローリーによって、男性のみか、女性でさえシッディを得るであろう。
ハタヨーガ・プラディピカー 3−85
具体的な修行について、mehaana、陰茎とは性交という意味で、性行為の後に精液を戻すと解釈されているという、 そんなの可能なのというのがヨガの世界ぽい。
適当な管によって、注意深く、陰茎の孔に、息を吹き込む。空気の通路を得るために。ゆっくり、ゆっくりと成すべきである。
ハタヨーガ・プラディピカー 3−86
かなり意味不明だけど、ヴァジュローリーについて語っていて、空気とはヴァーユ、エネルギーをどうやって戻すか書かれている。
佐保田 鶴治先生のヨーガ根本教典には具体的に鉛のような管を使うとか書かれてある。
女性器に発したビンドゥを、上方に引き戻すよう、修するべきである。発した、また自身のビンドゥを、上方に引き上げることで、保護するべきである、
ハタヨーガ・プラディピカー 3−86
このようにビンドゥを完全に保護するべきである。
ヨーガを知るモハは、死に打ち勝つ。
ビンドゥの発射により死があり、ビンドゥの保護から声明がある。
ハタヨーガ・プラディピカー 3−87
ヨーガ業者の身体に、良い香リガ、
ビンドゥの保護から生じる。ビンドゥが不動に至った身体に、どこに死の恐れがあるだろうか。
ハタヨーガ・プラディピカー 3−88
ビンドゥとは精液のこと。日本でも昔の武士は、性行為で接して漏らさずとか言ったとか、性エネルギーは生命エネルギー。外に出さないというのはわかる気がするが、出したあとに戻すといのがそれによってエネルギーをコントロールしようということなのだろうかと疑問が出てきます。
ヨーガ行者の身体に、良い香りが、ビンドゥの保護から生じる。ビンドゥが不動に至った身体に、どこに死の恐れがあるだろうか。
ハタヨーガ・プラディピカー 3−89
男性の精液は、チッタに依拠し、また生命に、精液に依拠する。ゆえに、聖液とマナスとを、細心に保護するべきである。
ハタヨーガ・プラディピカー 3−90
チッタとは、ヨーガでは心。マナスとはヨーガの心の3つの中のひとつで、「意」。五感を感じるようなことだ。
このように、ヨーガを知る者は、陰茎より上方に引き上げ、正しい実践で、婚期の女性のラジャスとビンドゥを保護するべきである
ハタヨーガ・プラディピカー 3−91
ラジャスとは、激質。ヨガでは3つのグナのひとつ。月経という意味もあるようです。ここまでがヴァジュローリーについて。それからサハジョーリーについて。
サハジョーリーについて
以下がサハジョーリーである。サハジョーリーとアマローリーは、ヴァジュローリーの同一の分野である。牛糞を焼いて作った清浄な灰を、水に混ぜる。
ハタヨーガ・プラディピカー 3−92
ヴァジュローリーの性交の後、女性と男性は美しい、四肢に快適に坐し、性交の終に直ちに塗りこむ。
ハタヨーガ・プラディピカー 3−93
牛糞を焼いた灰を水に混ぜて四肢に塗るという具体的な方法が書かれている。
これがサハジョーリーと呼ばれ、ヨーガ行者は常に尊重するべき者である。このヨーガは吉兆、快楽をもたらし、解脱をもたらす。
ハタヨーガ・プラディピカー 3−94
このヨーガは徳があり、智慧があり、真理を見、利己的でないもののみが成就をなし得、嫉妬に満ちる者は成就し得ない。
ハタヨーガ・プラディピカー 3−95
ただ性欲でこのヨーガの実践を行なっても成就しないと言っているように思えます。 性エネルギーをコントロールするのに人格の形成も必要ということでしょうか。サハジョーリーについてはここまでで、これからアマローリーの話になります。
アマローリーについて
以下が、アマローリーである。
ピッタが多いため、流れのはじめの水、生気を欠くため、流れの最後を避け、冷性の、流れの中間をもちいる。
カンダ・カーパーリカーの一派でアマローリーと呼ばれるものである。
ハタヨーガ・プラディピカー 3−96
ピッタとはアーユルヴェーダでいう火のエネルギー。この水は何をさしているのか意味不明ですが、尿という説があるそうです。 尿を飲む健康療法とかありますね。以前にやっているかたが尿を飲むのはとても効果があるとすすめていたが、自分は無理って思った。
アマリーを常に飲み、点鼻を毎日なすものは、正しくヴァジュローリーを修するべきである。
彼がアマローリーと呼ばれる。
ハタヨーガ・プラディピカー 3−97
点鼻とはナサヤ、アーユルヴェーダでセサミオイルなどを毎朝アビヤンガで実践することをすすめられている。同じことを言っているのかはわからないが興味深いところです。
実験によって流出した甘露を、灰と一緒に混ぜ、上半身に用いるべきである。超感覚的な視覚が生じる。
ハタヨーガ・プラディピカー 3−98
そういえば、インドでは上半身が裸で灰らしきものを塗った行者たちを見かける、関連性があるのか?
男性のビンドゥを吸い上げる、適切な巧妙な実践をし、もし女性がヴァジュローリーによって、ラジャスを保護するならば、彼女はヨーギーニーである。
ハタヨーガ・プラディピカー 3−99
ここでようやくヨーギーニー、ヨギーニという言葉が出てくる。現代のヨガをやっている女性をヨギーニと言いますが、この古典書によると性ヨーガのパートナーである女性修行者のことをヨーギーニであるとしていて、世界観が変わってきます。
彼女のラジャスは、少しも損失していないことに疑いはない。彼女の身体において、ナーダとビンドゥとが合わさる。
ハタヨーガ・プラディピカー 3−100
ナーダとは、ヨガでは音、人体に流れる生命エネルギーの音、振動のことで、ここもまた意味はわからない。ナーダ音については4章でも出てくる。
かのビンドゥと、そのラジャスとがヴァジュローリーの実践の結果として合一し、自身の身体に赴いたときに、すべてのシッディをもたらす。
ハタヨーガ・プラディピカー 3−101
ラジャスを上方に吸い上げ、保護する女性は、ヨーギーニーであり、過去と未来、または確固としたケーチャリーに通暁するであろう。
ハタヨーガ・プラディピカー 3−102
3章の41でケーチャリームドラーについて説明があって、舌で口の中を締めてエネルギーをコントロールするような行法。
ヴァジュローリーを奮励し、反復実践することで、身体の完成が得られる。このヨーガは吉兆を生じ、快楽においてさえ、解脱をもたらす。
ハタヨーガ・プラディピカー 3−103
20節にわたって語れてきたヴァジュローリーについてはここで終わる。
密教的、左道タントラ的な行法で、男女の性行為によって男性の修行者だけでなく、女性のヨーギーニについても言及されていることは興味深い。
ハタヨガの発展には女性のヨガ修行者たちの存在があったことがこれらから知ることができる。 男性修行者の修行の助けだけでなく、ヨーギーニたちも自らが解脱、解放されていく方法が生まれていったのではないだろうか。 現代では形を変えてヨガの世界のメインは女性たちになっているのは、何かのご縁かも知れないなんて思いました。