誰もがこの世界で暮らしていて、心に何かしらの痛みを持っているって思う。
そんなの当たり前だろっていう人もいれば、そんなことないよって言う人もいるかもしれない。
どう思うかはあなたの自由。
現代社会の文明国って言われる世界で生きていると、日々忙しくて自分の痛みと向き合うことも少ない。
そこで、ちょっとだけでも、誰かに対して何か不満や怒りがない?
家族や恋人に許せないって思うところがないだろうか?
個人でにだけではなく、政治がおかしいとか、税金払いたくないとか 中国はやばい国だっとか、原発はいらない、基地がいらないとか、社会に対しての不満や不安を持っていないか?
それらは、全て自分の何かしらの満たされないNeedsが作っている、 満たされていないのでなく、満たされいないと思っているNeedsだ。
NVCを学んでいくと、自分の内なる痛み、他者の痛みと出会う。
10月に学びに行ったNVC 非暴力コミュニケーションの国際集中トレーニングでも、自分の心に強烈な痛みが出てきた。 IITのレポートに書いてあるので、読んでみてね。
上のリンクに書いたように、自分の心の痛みは世界と繋がっている。
それは両親の痛みだったり、おじいちゃん、おばあちゃんだったり、もっと先祖だったり、数千年という人類の痛みでもあって、みんなが共通して持っている痛みだったんだ。
そんな痛みだって、頭で考えると絶望的になっちゃうが、ただただ感じてみると、みんなが痛みを共有しているって、すごいエネルギーで、みんなが繋がっているってことなんだ。
生命が活き活きとして、流れていることが全身で感じられて、大きな声でわーーって魂から叫ぶたくなる。
最初から一つなんだ。 全部ただある。
満たされている。 誰かに何かしてもらう必要もないし、全部必要なものはあるし、ただ出来事が起きているだけ。
全てが愛でいっぱいで、安心できるし自然と感謝が溢れてくる。
ここに気づいたら、痛みは一気に全部がなくならないが、意識的であれば、ゆっくりと溶かして変容していける。
NVCの目的は「自然な分かち合いが生まれる関係性の質にたどり着くこと」
このなんだかわかりにくい言葉を、僕はワークショップで、「あなたと私という関係性から、私と私たちの関係性に変えること」って伝えている。
変えるって言ってるが、変えるのは認識で、最初から、私とあなたという二元な関係は存在しなくて、私たちなんだ。 自分と他人は違うんだ、自分が孤独なんだ、一人なんだって気持ちが、他人と一緒にいたい、繋がりたいって思うが、 繋がりはすでにあるんだ。 ただ大切にする。
それだけだったんだ。 自分たちは日々の習慣で過去の経験が分離している痛みを持っている。
これらは気がついて、手放すことができるんだ。 実際は脳に刷り込まれているだけで錯覚、勘違い ビリーフ 思い込みをこれらは、自我の思い込んでいただけだったんだって気がついたら あっさり、バイバイできるものもあれば、強烈に刷り込まれているものもある。
その痛みはどんな経験から来ていたんだろうか?
幼き日の経験から来ていたりするし、大人になってからの経験である場合もある。
NVCを使うとその時大切にされなかったNeedsに気づいて、共感して、手放すことができる。
自分に制限をかけているビリーフ 例えば、何かやりたいことがあるけど、やろうとすると身がすくんでしまうとかは 何か大切なものを守ろうとしている神経レベルで契約して、できなくなっている可能性があって、その契約をやめるワークとして聖なる誓いのワークというのもある。
人はこうやって様々な思い込みや契約を赤ちゃんの時から、重ねて自我を形成している。
これらは全部、自分のものじゃなくて、幻影でしかない。 気づいたら、どんどんサヨナラしていいんだ。 ということで、IIT後、次々に出てくる自分の様々な痛みを発見してはさよならしている。
苦しさもあるけど、自分と繋がると、歓びに変わる。 手放すと隠れていたものが出てくる。
子供の頃の記憶とか思い出したりしてビックリする。 そして、思い込みを悪者にしない、敵にはしない、敵にするとまた新たに自分に制限をかけてしまう。
○○をしなくてはならないなどに変わってしまう。 捕らわれてしまうと執着になったりする。
自分を責めたりするパターンを再び繰り返してしまう。
Needsをただ大切にして手放すと世界は、ただあって美しい。
自分の心の痛みも美しく感じられる。
NVC 非暴力コミュニケーションを学び実践することは、ただ自分に気づき、ありのままでいること。 痛みを変容して自由になる。 魂を解放する。 全てが遊びだ。楽しもう。