あっちゃん少年がパーマカルチャーの世界へ。出会いは導かれるように。

パーマカルチャー

こどものころ、あっちゃんと呼ばれていた少年は読書が好きでシャイで、森や海で遊ぶのが好きだった。

横浜産まれっていうと都会っこと言われるが、育った環境は団地の裏は森があり、家の近所でもたくさんの虫がいて捕まえたりしていた。
少年の通った小学校は緑に囲まれていて、中学校の近くは田んぼがいっぱいあった。
子どものころは、歩いてザリガニを釣りに行ったりした。
ザリガニのなかに真っ赤なザリガニ マッカチンって呼ばれるアメリカザリガニがいて年々増えて、在来のザリガニが減っていっていた。

あっちゃん少年

バブル経済のまっただ中の少年時代、暮らしているまわりの景色、環境はめまぐるしく変わっていった。
森のなかは、秘密基地、大人のいない子どもだけのレイヤーの空間だった。そこには、自分のおもちゃ カーケシって言われる車の消しゴム、消せないから消しゴムではないんだが、隠していたりした。
そして、あるとき重機が入り森は消えた。 土地は売りに出され、ぼくたちは、そこを工事現場と呼んで、新たな遊び場に変わったが、しばらくして家の建設がはじまり、子どもたちが遊んでいると、現場の作業員に嫌な顔をされたように感じた。

自然がなくなっていくことは悲しい気分になったが、しばらくすると新しい景色になり、それが日常であまり疑問にも感じなかった。

少年は海へ

話は家の近所から海へ。子どものころ、ぼくにとっての海は横浜の港か、伊豆の海だった。
父親の仕事場が本牧港で、その近くで釣りをよくした。 油の臭いがする港は子ども心に臭いし、汚いって思ったが、釣り人が来ないからか、魚はけっこう釣れた。
そして伊豆の海は、父親の実家が海まで歩いて30メートルくらいで、夏休みは実家のある網代の海が遊び場だった。 玉砂利の海岸は水はクリーンな色だったが、足のつかないところまで泳ぐと海底にはゴミがいっぱいでビックリした記憶がある。

話は少年時代のことから、なかなかすすまないが、あっちゃんことあつし少年は楽しく充実して幸せな少年時代だった。
学校の勉強もどちらかというと好きだったし、自分でいろいろ調べたりするのも好きだった。
苦手な意識があったのは音楽くらいだった。
子どものころは学校の勉強は簡単だって思っていた。
ただ覚えれば、出来てしまっていた。
小学生の高学年くらいのときには、新聞を読むのも好きになっていた。
新聞は自分の知らない世界と繋がれる世界だった。

あっちゃん少年がパーマカルチャーに目覚めるまでを書こうと書き始めたのが、少年時代の話だけでどんどん長くなって、いったいいつパーマカルチャーって感じになってきたが、世界で起きている問題に少しずつ関心を持ってきたってことについて書いていたんだ。

少年が環境や政治へ関心をもつ

環境や平和ってことに関して、子ども心になんとなく気になっていた少年時代、政治にも興味を持つ。
小学生の高学年のときに、街の電柱などに貼られたポスターに気がついたんだ。
選挙のための政治家のポスターだった。顔の写真と名前が貼ってある。
何者なんだろう?この人たちは?
そして、母親がある政治家 市会議員の選挙の応援をはじめていた。
自由民主党とか社会党とか、アメリカってとかソ連ってとか世界のことが気になってきた。

そんな世の中のことに関心がでてくるいっぽうで、子どもらしい夢がない少年だった。
プロ野球選手になるとか、警察官になるとか夢がなかった。
夢は何って言われるととっても困った。

子ども心に強くなりたいとか思ったが、いわゆる世間でいう職業の夢はなかった。
大人が望む夢のない少年は、アメリカに行けば自由がある、アメリカに行きたいって思った。
自由の国だって、思っていたんだ。

そんな少年は大人になるにつれて、心を閉じて自分を表現するのが苦手になっていった。
自由の国のはずのアメリカの湾岸戦争で、アメリカって国に疑問を持ち、平和憲法を持っているはずの日本がアメリカに言われるままに、憲法の解釈を変えて自衛隊が海外に出て行く。

世の中に疑問を感じるいっぽうで、システムのなかで働いてお金を稼いで、生きてきた。

パーマカルチャーなんて言葉とは真逆のお金を稼いで消費する日々。

そしてお金を稼ぐ手段として選んだ仕事で出逢ったのが設計、半導体のレイアウト設計という仕事でデザインと出会った。

デザインとの出会い

パーマカルチャーとは、たんなる農法ではなくデザインすること。
デザイン思考を持ってサステナブルなデザインをすること。

お金が目的の仕事で、デザインすること、システム設計をすることが、全然違う世界のパーマカルチャーの世界へ繋がっていたって後で気がついた。

そして、サーフィン 波乗りとの出会いがパーマカルチャーへ繋がった。
興味を持ったのは、22、23歳くらいのときにバイトしていたバイト先で出会った先輩がサーファーで、世界を旅する先輩はぼくの知らない世界をいっぱい見ていた。

サーフィンをやったら女の子にモテるかもなんて、下心もぶっちゃけあった。

都会で飲み歩いていたボクが久しぶりに行った海は汚くて、サーフィンをすればするほど環境問題への関心がでてきた。

少年は大人になりパーマカルチャーと出会う

そんな活動で出会ったサーファーの先輩の一人で鎌倉で自然農をやっている人にパーマカルチャーというものを聞いたのが、今から約10年前の2006年だった。

パーマカルチャーは元々、日本の里山にあったもので、別にオーストラリアとかで学ばなくてもいいって話とかも聞いた。ぼくも最初は農法の一種だって思っていた。
そして、あるときパーマカルチャーの本とであった。

「パーマカルチャー―農的暮らしの永久デザイン」 この本を読んだら、農業のことではなくエネルギー問題とか、暮らし全般のデザインだって知った。

本がぼくにパーマカルチャーへの興味を拡げてくれたんだ。

2010年にニュージーランドへ一人で旅するときに、パーマカルチャーの世界を見たいと思い、有名なパーマカルチャーファームだったレインボーバレーファームに、問い合わせをしたが、しめたばっかりだった。

2010年はぼくがトランジションタウン運動へ参加した年だった。
トランジションタウン鎌倉とトランジション葉山のエネルギーのワークグループを立上げて、自然エネルギーなどの勉強をするなかで、パーマカルチャーへの関心が高まり、勉強をしていった。

去年、2015年にタイのタコメパイでパーマカルチャープラクティカルコースを10日間受講して、知識を得たというよりも、自分がパーマカルチャーリストとして生きていくんだった思うようになった。

という感じで、あっちゃん少年がパーマカルチャーリストとして生きるまでの話を簡単に書いた。

この雑多な感じのブログだが、パーマカルチャーの話を書いていきます。

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